【パクリ問題】パクる人の心理とは?パクリについて真剣に考えてみた
パクリに厳しく目を光らせるNiAです、こんにちは。
本日はタイトル通り、パクリについて考えてみました。
何故パクリはなくならないのか?
正直パクる人の心理なんて解りません。
その人のみが知るようで、その人すら解らないのかもしれません。
私なりに幾つかの理由を考えてみました。
評価が欲しい
SNSをはじめ、自分への評価が「数」で見えるこの時代。
優れた絵を描いても人の目に留まらなければ「数」の評価は得られません。
そうした中で一度でも他人の物に手を出して、たまたまそれが評価されてしまえばどうでしょう?
麻薬のようにどんどんパクることに罪悪感がなくなっていってしまいます。
たまたまバレなかった、次もたまたまバレなかった。
評価だけが上がっていく。
そんな状況、考えるだけでも恐ろしいです。
自分の物との見分けがつかない
パクることが当たり前になっていては、もう自分の絵との見分けがつかなくなっているのでしょう。
パクらないと描けない。だからパクる。でもパクってるつもりはない。
正直こうなってしまえばクリエイターとしては終わりでしょう。
最初からクリエイターですらないかもしれません。
スマホで誰でも簡単に他人の画像がダウンロードできるような時代です。
他人の物と自分の物の区別がついていないなと思う方は、悲しいですがSNSでもよく見かけてしまいます。
悪意
一番タチ悪いですが、パクリを嬉々として行なっている場合もあります。
「元の絵がイマイチだからこっちで描き直してあげたんだよ」なんて悪意しかないですよね。
残念ながらそういった悪意でパクリを続ける人がいるのも事実です。
オマージュのつもり
オマージュというのは尊敬が大前提です。
他人の作品を単に自分の物にしてしまうのは、パクリです。
そういった前提があるにも関わらず、パクリとオマージュの違いが解らず「オマージュだ」と言い張ってパクリをしてしまっていることもあります。
無知と無自覚だから許されるということはないので、自分の肝に銘じておくことが大切です。
もちろん上記以外にもパクリの理由なんてたくさんあると思います。
私は心理学者ではないのでこれ以上のことは思い付きませんでした。
しかし書いていて思うのは、悲しいなあということです。
絵に限らず物を創作する立場として、同じだとは思いたくありません。
模写やトレースはパクリではないのか?
トレースに関して
トレースは個人の練習範囲であれば行なってもセーフでしょう。
ただし、トレースは何の力にもならないと個人的には思っています。
他人の絵を下に敷いてその線をなぞったところで、自分の力になるのでしょうか。
バランスの感覚ぐらいはつかめるようになるかもしれませんが・・・。
よっぽどでない限り、トレースは行なう物ではないと思っています。
それならば模写で観察眼を磨いた方がよっぽど力になります。
ちなみに「トレパク」という言葉もあるように、やはりトレースしたものを人に見せる(公開する)と「パクリだ」という評価を受けることは必至でしょう。
模写に関して
模写に関してもパクリだと言われる方も中には居ます。
あくまでも模写は「目で見て(観察して)描く」ことなので、パクリとはやや異なります。
もちろん他人の作品を模写してそれを自分の物として公開してしまえば、それはパクリと変わりありません。
あくまでも模写であれば出展と模写であることを明記する必要があります。
それでもパクリだと言われてしまうこともあるので、個人的には難しい問題だなあと思っています。
余談ですが、私の場合は模写ばかりを行なっていると自分で考えて絵を描くという脳が鈍ってきました。
何かを見て描かないと不安で仕方がないのです。
もしかしたらこれがパクリへの第一歩になってしまうのかもしれません。
ですが、ここで踏み留まって自分の絵を探すのが上達への一歩でもあります。
まとめ
絵を描くことに限らず、何かを生み出すというのは苦痛が伴う作業です。
その苦痛から逃れて楽な方に逃げてしまえば、元の道に戻るのはそれ以上に苦労の連続になってしまいます。
踏ん張りどころを間違えてはいけません。
私自身、自分にいつも言い聞かせています。
絵を描くことは大好きです。
でも同時に苦痛でしかありません。
ですが好きなこと=楽なことではないのです。
それでも描き続けたいと思う気持ちを、私は大切にしていきたいと思っています。
この記事は自戒でもあります。
自分自身、アイデアが思い浮かばない時に弱った心によぎる物があります。
ですがそれをしないのが一絵描きとして、クリエイターとして当たり前のことであり、新しい自分に出会える一歩になると思っています。
それでは本日はこの辺りで。
最後までお読みくださり有り難うございました!